2016年7月15日金曜日

「祖父の死に思うこと」(相互に依存する生命と多様性の源泉について考える)

先週末、九州の祖父が他界しました。

二ヶ月前の危篤時にお休みをもらって
祖父の病院にかよわせてもらったおかげで
お別れはすませていたので、動揺はせずにすんだ。
晩年はアルツハイマーを発症して
孫も子供たちの顔もわからなくなっていた祖父。
しかし、ボケてもなお変わらないのは、いつも笑顔なところ。
とても几帳面で器用な人で(残念ながら自分にその血は流れなかったが)
日曜大工や園芸が趣味。
自宅には工具や旅先で拾い集めた石などが
丁寧に整理整頓されていた。
やさしくて真面目で、ひょうきん。
夏休みに祖父宅で走り回っていると
「家の中は走り回るためにはできちょらんちゃがね。」
とよく叱られながらも、「怖い」とおもったことは一度もない。
●●●
初孫であった自分は、たぶん特別に可愛がられていた。
それを感じていたぶん祖父の話に耳を傾けることは多かった。
祖父が酔うとよくした「シベリア抑留時」の話。
ーー
自分たちが乗っている鉄道が
どこにむかっているのかもわからないなか、
このまま日本に帰れるか?はたまた捕虜にされるのか?
と日々不安だったという。
そんななか
「水辺がみえるとよ、それが湖か海かもわからんとやね。
 みんなダァーと走って行ってから
 その水を飲んで、たしかめるとよ。
 塩水じゃったら、日本海じゃけんど、
 『あぁ、しょっぱくない!』
 その度に、やっぱり自分たちは日本には帰れんのか
 とおもってみんなしょげて列車にもどるんよね、、」
ーー
そう話ながら、
目を細め、風景を思い浮かべている横顔は
いまでも思い出せる。
●●●
葬儀の中盤、祖父の長男である伯父が
「父の子供時代は決して幸せだったとは
 いえなかったと思います。」と語った。
なんとなくは知っていたけれど、
祖父は実の親からの愛情に恵まれたとは
いえない幼年期を歩んできたらしい。

詳細はわからない(し、聞く気もない)が
親戚のだれもが「捨てられた」という言葉を
決して口にしないよう心がけている。
そんなふうに感じていた。

親との不幸せな関係、戦争、ゼロからの戦後。

自分なら絶望をしていただろう困難を
いまの自分よりも遥かに若い年齢で
何度も経験したことは間違いない。
しかし、祖父は生き抜いていった。
そして、祖母と出逢った。

伯父の言葉がつづく。
「自分の幼少期、ある時期をさかいに
 父の表情が変わり、やわらかくなっていったのを覚えている。」
自分にとっては「やさしくて真面目で、ひょうきん」
だった祖父にそうではない時期があったことを知った。
祖父は生きることの辛酸をなめ、困難を知り
なお「いつも笑顔」でいたのだ。
●●●
子が4人、孫が10人、ひ孫が5人。
通夜、葬儀には全員が駆けつけた。
祖父が戦後を、人生を生き抜き、
育くむことに絶望していたら
これらの生命は紡がれていない。
逆を言えば、たった1人が生き抜くことで、
これだけ多くの多様性が世界にもたらされる。
そこには祖父を支えたヒトたちの
陰日向ない心遣い・利他もあったことも想像にかたくない。
●●●
これは、すべてのヒトに同じことがいえると思う。
すべてのヒトに生命があり、幼少期があるのならば
いまこの瞬間まで、自分自身を支えてくれた誰かがかならずいるはずだ。

ヒトは1人では存在しえない。

だから「人間」なのだ。

「生きること」は関わること

「生きること」は育くむこと

人間である以上
どこまでいっても私たちは、連綿と続く大きな物語の一部だと思う。
だからこそ、ただ「生き」ただ「育くむ」こと、
それ自体が、もう、とてつもなく偉大だと感じる。
画一的な世界で効率ばかりを考え、
縦の価値基準で互いを比べることになれてしまうと
ワタシたちはそのことを、ついつい忘れがちになる。
●●●
お別れの時
この二日間つねに気丈に振る舞っていた祖母が、
「お父さん本当によく頑張ってくれたね。
 お疲れ様でした!ありがとうね!」
そういって、ボロボロと涙をながした。
享年88歳
社会的には慎ましやかな
しかし、ワタシにとってはどこまでも偉大な
祖父の見事な生き様が、こうして幕を閉じた。
ーー
7年前
当時の恵まれた仕事をやめて、
世界に旅に出るかどうかを迷っていた自分。
相談するとだれもが良い顔をしないなか
祖父にその話をすると
「それはいい経験になるっちゃろうね。」
そういって、そっと背中をおしてくれた。
ーー

「じいちゃん、繋いでもらった生命。
せっかくだから自分が信じる道を妥協せずに
最後まで前のめりに生き抜いてみます。」

炉にむかう祖父に手をあわせながら、
心のなかでそう唱えた

そんな勇気をもらえる出来事でした。

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